家族

自己治癒力により心身を整えていく。量子力学・宇宙物理学・脳科学の観点から精神を捉えた新しい科学に基づいた療法。




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2016年01月27日(Wed)▲ページの先頭へ
427) 環境を変えると自分が変わる
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。

今日は、「環境を変えると自分が変わる」 について書きます。

『孟母三遷』という言葉があります。
これは、 「子供は周囲の影響を受けやすいので、子供の教育には環境を選ぶことが大切であるという教え。」と辞書にあります。
子どもに限らず人は環境が変わると知らないうちに変わっていくようです。
では、どうして環境が変わると人は変わるのでしょうか。
ここでは、身体に受ける刺激が変わるという観点から考えてみたいと思います。

人は日々刻々と変わる刺激を身に受けて暮らしています。
経験したことのない刺激に対しては意識するけれど、慣れた刺激に対しては意識しなくなるといわれます。
つまり、慣れた刺激に対してはその都度意識しなくても身体が勝手に反応するようになっている。
逆に、慣れない刺激に対してはその都度意識し、それに対する反応を模索するといえます。

ここから身体に受ける刺激を変えるとそれに対する反応が変わる。
反応が変わると結果的に行動が変わることになります。
刺激を変えるには例えば環境を変えればいい。
つまり、「環境を変えれば自分が変わる」ということになります。

こうして環境を選択することで自分を意図的に変えることは可能だと考えます。
他にも『朱に交われば赤くなる』『旅の恥はかき捨て』などがあります。
これらからも、人は環境に左右されやすい、環境によっていかようにも変われるといえるのではないでしょうか。

自分を変える方法は数多あると思います。
ここでは、環境を変える=刺激が変わる=反応が変わる=行動が変わる=自分が変わるとの観点から書いてみました。

twitterでは随時気づいたことを投稿しています。
興味を持たれた方はアクセスしてみてください。https://twitter.com/rakuhomanami


2015年11月23日(Mon)▲ページの先頭へ
424) 鏡の中の私
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。

今日は、「鏡の中の私」 について書きます。

目は目そのものを見ることは不可能。だから人は鏡に映して見る。
毎朝鏡を見て化粧したり、洋服を選んだりしている。
それでも時々、鏡に映して確認している。
街のショーウインドーに映った自分の姿を見る。
鏡に映った自分の姿や顔を見て何をしているのでしょうか。
どうやら自分のイメージ通りになっていることを確認し、安心しているようです。
つまり、自分が想像している姿と鏡に映る姿が一致していることの確認をしている。
それほど、人は自分の見え方を気にしているといえます。
一日のうち、どれほど自分の姿を見ているでしょうか。
どうしてそんなに見るのでしょう。

人の目が気になる。
人がどう思っているか気になる。
何か言われるのではないかと思うと人の中に出ていけない。
このように語る人たちがいます。

なぜ人は、それほどまでに他者の目を気にするのでしょうか。

こうのように考えていると、鏡の中の自分の姿とそれを見ている自分の関係は、自分と自分を見ている他者の関係に重なってきます。
つまり、鏡=他者。人は他者の中に自分の姿を映していると考えられます。
もっというと、人は他者を見ているのではなく、他者の中に映る自分自身を見ている。
他者がどのように見ているか=自分の姿
他者に良く見られたい=良い私
他者に好かれたい=好かれる私 etc
だから人は他者の目を気にする。

こうして、私たちは他者という鏡の中の私を見て生きている、他者という自分の姿に翻弄されていると言えるのではないでしょうか。

シニフィアン研究所  http://signifiant-lab.com/
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2015年08月31日(Mon)▲ページの先頭へ
420)根無し草(デラシネ)&関西出張のお知らせ
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。

今日は、「根無し草(デラシネ)&関西出張のお知らせ」 について書きます。

デラシネとは、辞書によると「根無し草のことで、転じて故郷や祖国から切り離された人」とのことです。ここではこの意味を転じて、「心の居場所から切り放された人=居場所がないと感じている人」として考えてみることにします。

「どこにも自分の居場所がない」
このような表現を聞くことがあります。
物理的に居場所と定められた場所があっても、その本人が自分の居場所だと実感しない限り、意味をなしません。
つまり、居場所があるとは、「ここが自分の居場所だ」と感じる場所があることを指します。この意味において、根無し草(デラシネ)とは「心の居場所がないと感じている人」となります。

ここが自分の居場所だと感じるとはどういうことでしょう。
居場所があるとは、自分が居る居ないに関わらずその場所が確保されているということ。
いつでも自分の座る場所が存在するということではないでしょうか。
自分が気ままに行っても、常にその場があること、あるいはそのように思えること。
もっというと、自分の気ままにしても許される場があるということ、歓待される場があることだと考えます。
たとえ離れていたとしても自分には帰る場所があると思える。 このような場があると思える時、人は「自分の居場所がある」というのでしょう。

それとは逆の場合を根無し草(デラシネ)といいます。しっかり根を下ろしたいと切望しつつ、どこにも自分の居場所がないと感じ、結果的に放浪することとなる。

以上のことから根無し草(デラシネ)人には「定着」という言葉の意味が理解できない可能性があります。なぜなら、「定着」とはしっかりとつくこと、一定の場所に落ち着くことという意味だからです。

では、定着するにはどうしたらいいのでしょう。
それにはまず、自分の場所(席)を作ってもらうことからスタートです。
すべてはそこからです。それができないとその先はないといっても過言ではないでしょう。

蛇足ですが、「定着」以外にも「着」のつく熟語を調べてみると、密着、帰着、決着など興味深いものが出てきます。
興味のある方は一度検索してみてください。

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≪9月度関西出張のお知らせ≫

*1日(火)〜3日(木) 大阪市・和歌山市

面談・インテグレーター養成講座・≪人間講座−象徴界に生まれる≫・フリートーク(テーマは『分かち合う』 )

*8月31日(月)・9月4日(金)埼玉県大宮市

詳しくは、シニフィアン研究所のHP http://signifiant-lab.com/  Twitter https://twitter.com/rakuhomanami、を参照、連絡ください。


2015年02月12日(Thu)▲ページの先頭へ
403)ダイエットと言語−言語でやせる
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。

今日は、「ダイエットと言語−言語でやせる」 について書きます。

「ダイエット」と聞いて興味を持つ人、かつて挑戦した人はかなり多いのではないでしょうか。
ところがなかなか成功しなかったり、続かなかったり、リバウンドしたりなどなど。

ここで、先日ある人から聞いた体験を紹介します。
それは表題にも書いたように「言語でやせる」です。
それにはただ一つのことを実行し、継続することだそうです。
それは、
≪食事の度に『いただきます』と『ごちそうさまでした』を声に出して言うこと≫

これなら簡単、すぐに実行可能です。あるいは、もうすでに実行している人もいるでしょう。
では、食事の度に声に出して言うことがどうしてダイエットに繋がるかを考えてみます。

要因は二つ。
一つは「声に出して言う」もう一つは「区切る」です。

最初に「声に出して言う」から考えます。
声に出して言うことは、誰よりも声を出した本人が聞きます。
頭の中で思い浮かべるだけではすぐに消えてしまう可能性が大きい。
思い浮かべたことを声に出して言ってみることで、自らの耳で聞いて再確認することになります。
語った自分の言葉にハッとした経験のある人も多いのではないでしょうか。
このように、声に出すことによって自ら再確認する効果の可能性が考えられます。

次に「区切る」を考えます。
区切るとは、食べている状態を切る=食事は終わりということです。
これは、いただきます= 食事の開始を意味し、ごちそうさま=食事の終わりを意味するということです。
ここである人のエピソードを紹介します。

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半信半疑で聞いたことを実行し始めたある日のこと。
いつものように食事に続いてお菓子を食べようとした時、突然、その人の脳裏に
「あ、そうだ、私はもう『ごちそうさま』と言ったんだ」と蘇ったと同時に伸ばした手を反射的に引っ込めたそうです。
この時、その人は半信半疑の気持ちが納得に換わったと語りました。
それからは、以前に増して、かみしめるように毎回大きな声で
『いただきます』と『ごちそうさま』と言うようにしているとのことです。

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毎回このように手が引っ込められるとは限りません。
ですが、毎回言葉に出して言うことで、「食事をしている自分」と「食事を終えた自分」をしっかり区切ることがその結果として体重減少という現象をもたらすのだと考えます。

以上のように、言語が身体に大きな影響を及ぼす好例を紹介しました。
まず「言語(言葉)ありき」
その言語をどのように決め、使うかによってその結果が違ってくると考えます。

Twitterでも日々つぶやいています。https://twitter.com/rakuhomanami
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2014年07月30日(Wed)▲ページの先頭へ
388)楽にいきましょう
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の真道満喜(しんどうまき)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えませんか。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題・つかみ放題だと実感することでしょう。

今日は、「楽にいきましょう」について書きたいと思います。

『楽』の文字を何と読みますか?
「ラク」「ガク」「タノシイ」「タノシム」、漢字源によると「カナデル」「ササ」「モト」「ヨシ」 とも読めるそうです。

それはさておき、『楽』はラクであり、タノシイでもあると考えてみます。
すると、楽なことは楽しいことなります。
人生を楽しみたいのなら、楽なことをすればいい。
≪楽すれば人生は楽しい≫
シンプルで、簡単に思われます。

ところが、
「そんなことしたらダメだ」
「そんなことは世間では通用しない」との声が聞こえてくるという人がいます。
自分よりも相手のことをまず考えて、相手が喜ぶように行動する人。
時には自らすすんで苦を引き受け、それを克服してこそ素晴らしい人生だと自負する人もいます。
そのような人を強い人、あるいは人格者と呼ぶのかもしれません。
そんな人をお手本にしなさいと見聞きした記憶があるかもしれません。
そのような生き方の向こうに充実した人生が待っていると語る人もいるでしょう。

十人十色の生き方があって、それぞれがその人にとっての生き方。
それについて肯定も否定もしません。
ただここではもっとシンプルに言いたいと思います。

『楽にいき(生き、行き、活き、良き、息、好き、意気、往き、逝き)ましょう』
こんな人生もまた楽しからずやではないでしょうか?

もし何かを背負っていると思う人がいたなら、そろそろ下してみませんか。
そして、これから楽にいきませんか。

シニフィアン研究所ではそんなことをしています。
HPはこちらです。http://signifiant-lab.com/
Twitterでは毎日つぶやいています。https://twitter.com/sindoumaki


2014年06月10日(Tue)▲ページの先頭へ
382)早期に人生の決断をしている
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の真道満喜(しんどうまき)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えませんか。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題・つかみ放題だと実感することでしょう。

今日は、「早期に人生の決断をしている」 について書きます。

人は成長の過程で、その都度その人なりの決断をして生きています。
しかしその決断は、幼少期にしたそれの反復であり、そのプログラムに気づかない限り変更されることはない。
つまり、あるエピソードを通して決断したプログラムに従っていく という一例を紹介したいと思います。

ある人が「私は貧乏でお金の苦労をしてきた。なのになぜか、お金を欲望しなかった。」と語りました。
通常、お金で苦労したら、お金が欲しい、お金持ちになりたいと思うのは納得できることです。
ところが、その人はそう思わなかったというのです。
本人も不思議だと思っていたそうです。

ある時の分析場面で、その理由が明らかとなりました。
というのは、ある幼少期のエピソードを思い出したからです。
内容はさておき、その時その人が思ったことは次のことでした。

≪お金を貯めたら、必ずなくなる。≫

当然、このエピソードはその時を限りにすっかり忘れ去られていました。
数十年を経て、ある時の分析の語らいの場で思い出されたのです。
このことを語った瞬間、その人は叫びました。
「あの時に私はお金を貯めることを止めたんだ。」
そしてその人は理解しました。
なぜ自分がお金に困りながらも決して欲望もせず、貯めようともしなかったかということを。
まさしく長年の謎が解けたのです。

分析家に語るという行為の中で、自らの謎に自らの語らいで気づいていく。
もっというなら、自らの謎を自らが解いたのです。
同時にその人は、人生の早期にあるエピソードをきっかけに、自分の人生を決定してしまうことがあることを教えてくれました。


語ることは自らの無意識に気付く有効な手段の一つです。
自分を知ることを厭わない方、」興味を持っている方は語ってみませんか?
長年の自分の謎が解けるかもしれません。

シニフィアン研究所のHP http://signifiant-lab.com/ を参照ください。
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2013年12月22日(Sun)▲ページの先頭へ
360)だましのテクニック―言語の威力
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えませんか。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題・つかみ放題だと実感することでしょう。

今日は、「だましのテクニック―言語の威力」 ついて考えてみます。

オレオレ詐欺、振り込め詐欺など、詐欺被害が横行している昨今です。
どうして人はだまされるのでしょうか?
それは言語の威力(言語に隷属しているから)だということを考えてみたいと思います。

例えば、「有名ブランドの紙袋」の話です。
ある女性に聞いた話です。
毎日お弁当を、高級ブランドの紙袋に入れて通勤しているのだそうです。
彼女曰く、「だって、中に高級ブランド商品が入っているように見えるでしょう。もしくは、そこでお買い物をしてる人だって思うかもしれないでしょう。」(ちなみに、それらの紙袋がネットオークションでも売買されているそうです)

彼女は何を語っているのでしょうか。
これは、紙袋に書いてある文字やロゴマークから連想するものと、実際の中身が違っています。
そして、そのことで中身に関係なく、紙袋が高級ブランドの商品を連想させるというのです。
もちろん、すべての人がそのように考えるとは限りません。
が、少なくとも、その高級ブランドに関心のある人は何らかの思いを持つことでしょう。
彼女は意図して持っていたようですが、意図しなかったとしても同じように思う人が少なからずいるでしょう。
つまり、意図するしないに関わらず、紙袋の文字やロゴマークなどがその中身を指し示す機能を持っているということです。

もう一例。
スーパー銭湯が盛況だそうですが、その入り口には「のれん」が掛かっています。
そして、のれんには「男湯」「女湯」と書かれているのを知っています。
あるスーパー銭湯では、日時によって交代するのだそうです。
その時、どうするのかというと、「のれんを交換する」のです。
つまり、それまで「男湯」だった湯舟が、その瞬間に「女湯」に変わるのです。
当然、私たちは「のれんの言語」に従って入って行きます。
ここで、万が一間違っていたらどうなるかは、想像に難くないでしょう。

これこそが、まさしく「だまされる」可能性が口を開けて待ち受けている場(穴)、時ではないでしょうか。

私たちは、その中身が何であるかよりも、何と書いてあるか、何のロゴマークなのかでまず中身を想像し、判断する傾向にあるのです。
つまり、言語に従って想像することになります。
というよりも、想像させられているという方がいいかもしれません。
そして、その自らの想像を吟味せずに信じるかどうかが、だましの穴に落ちるか落ちないかの瀬戸際です。

詐欺師と呼ばれる人たちは、これらのことをよく理解していて利用するのです。
そして、言葉巧みに人をだますのです。
これらはすべて、私たちが日々言語に従って生きているからです。
言語や記号は、それぞれある意味を想像させ、指し示す機能を持っています。
だからこそ、我々は互いの意思疎通を図れるのです。
また逆に、言語に振り回され、だまされ、喜怒哀楽にもてあそばれることにもなる。

「言霊」「人を生かすも殺すも言葉一つ」「言葉が身に染みる」「言葉に感動した」「言葉が胸にぐさりと突き刺さる」「ペンの力」etc

私たちは言語によって、生かされもすれば、殺されたりもする。
このように言語は、人の生死に関わる威力をも持っているのです。
だまされる可能性の穴はすべての人に開いています。
それは人は言語に従って生きているからです。
これらを、ジャック・ラカンは「人は言語に隷属している」と言いました。

日常生活の中で、「言霊」とも言われる言語を、人を生かし、自分を生かすために使いたいですね。

シニフィアン研究所のHPもどうぞhttp://signifiant-lab.com/


2013年10月15日(Tue)▲ページの先頭へ
352)一家団欒(だんらん)
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えていきます。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題だと実感することでしょう。

今日は、「一家団欒」 について考えてみます。

「一家団欒(いっかだんらん)」=一家族が集まってなごみ楽しむこと
辞書にはこのように表記されています。
核家族化と呼ばれて久しいですが、どれだけの家族がこの団欒を時をもっているでしょうか。
その是非はとまれ、
ここでは、食事を中心に一家団欒がもたらすものについて考えてみます。

そしてそれは、「共食」「共感」「共生」であり、それが安心・安全の基であり、それが心身共に安らぎをもたらすと言いたいと思います。

「共食」とは、ここでは文字通り、一つの食卓につき共に食事をすることを指します。
食卓に家族が一堂に会するということです。
それは、お互いが時間と空間を同じくすること(時空の共有)を意味します。
「共感」とは、母の調理した料理を口にし、それぞれの味わいと感想を共有すること(味の共有)をいいます。
「共生」とは、共食と共感により、共に生きていることが実感できることを指します。

改めていうまでもなく、「食」は人が生きていく上でその基本となるものです。
必要な栄養を取ることだけが目的ではなく、「食」を通して様々なものを取り入れることでしょう。
素材、調理方法、食器、雰囲気などなど、数えきれないくらいの付加されるものがあります。
それらすべてを含めての食事の基本が、まずは家庭の食卓であり、
そしてその基本となるものが「共食」「共感」「共生」だといいたいのです。

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子どもの様々な問題と向き合っていると、ある共通点が見えてきました。
すべてとは言いませんが、かなりの子どもが個食(孤食)の傾向にあるのです。
ある小学生に聞くと
「別に普通、1人でテレビ見たりゲームをしながらの方が楽しいし、、、」と言いました。
ある年齢以上になると、家族が一堂に会することは難しくなることでしょう。
だとしたら、それまでの時期に「共食」の楽しさを可能な限り体験させてあげたいものです。
共に食べ、共に語り、共に味わうことの楽しさを知る。
それが「我が家の味」であり、「おふくろの味」と呼ばれてきたものではないでしょうか。
その上にさまざまな味の体験を重ねていく。
家庭(母)の味を比較参照として「美味しい」「イマイチ」「口に合わない」などと語るのだと思うのです。
家庭の味を知らないとは、まさしくこの母の味を知らない、一家団欒の時と空間を味わったこと、味の基本となるものがない、ということではないでしょうか。

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何よりも人がホッと安らぎを感じるのは、昔なつかしい味に出会った時では?
「何故かなつかしい気がする」
「なぜかホッとする」
「何故か分からないけど好き」
と表現する時は、どこかで「我が家の味」、それはまた家族(母)との思い出に繋がっている、そのように思うのです。

「同じ釜の飯を食った仲だ」
「同じ鍋をつついた」
「一つのパンを分け合った」etc

これらの体験が心身の栄養素となり、成長をよりいっそう促す。
心身の健康はまず食卓から、一家団欒の時空から始まると言いたいのです。

多忙な時を生きている私たちですが、日に一度、週に一度、月に一度でも「一家団欒」の時間と空間を可能な限り持ちたいと思っていませんか。

今日は「一家団欒」について書いてみました。
ひょっとしたら死語となりつつある、あるいはもうすでになっているかもしれません。
それでもやはり古くて新しい言葉だと思います。

シニフィアン研究所の迎意 愛からのメッセージです。
HPも参照ください。http://signifiant-lab.com/

★個食とは、 (「孤食」とも書く)家庭で、家族が団欒(だんらん)することなく、一人で食事をすること。また、一人一人がばらばらの時間に食事をとること。
・個食とは、家族が集まっていても各人個別の食事を取ること。




2013年03月12日(Tue)▲ページの先頭へ
329)母子分離=母が言語になるとき
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えていきます。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧いてくることでしょう。

今日は、「母子分離=母が言語になるとき」について書きたいと思います。

母はすべての人にとって、最初の愛着の対象だといわれています。
それは、自分という存在をこの世に生み出してくれたその人だからです。
そして、乳幼児の時代は、
誰かに適切な世話をしてもらわないと、片時も生きられない存在だからです。
だからこそ、生み出してくれたその人に常に側に居て欲しい、
自分だけの人であってほしい、
独り占めしたいと切望するのでしょう。

しかし、社会参入することは、
その愛着の対象との別れを受け入れることでもあります。
心身ともに自律するためには、必須のことです。
つまり、子ども時代を終わらせ、大人の世界へと参加することを期待されています。
そのことを『母子分離』と呼びます。
これは、精神的、空間的、金銭的に自律することを指します。
現在、その猶予期間は約20年と言えるでしょう。

身体的に分離してから20年をかけて、精神的に分離することを求められているということです。
精神的に母子分離することを考えたいと思います。
様々な切り口がありますが、
ここでは、母が言語になることだと言いたいと思います。

どういうことかというと、
生身の自らの母が、だれもが自由に使う『母』という言語になることを意味します。
つまり
・思う通りにさせてくれなかった母
・言うことを聞いてくれなかった母
・放任の母
・支配した母
・頑固な母
・わがままな母
・他の兄弟姉妹に獲られた母
・溺愛した母
・いつも不在だった母
などなどの母から
・『ただの母』
・『どこにでもいるボケ老人』
・『ただの人』になることです。

ある人が淡々と言い放ちました。
<私を支配し続けた母でしたが、今ではどこにでも居るボケ老人になりました>と。
そのように語るまで15年近くの時間を必要としたとも語りました。
何の感情も交えず、湧き上がることもなく、
やっと<ただの人になりました>と言えるようになったと語った人もいます。

彼らはそれまで、多くの不平不満を語り続けました。
また、不平不満すら語るまでに相当な時間を要した人もいます。
ただ、共通していることは
長く抱えてきた母への不平不満を語り続けた結果、
『母』という誰でも使うただの言語となったということです。
<母を尊敬している>と語る人もいます。
それでも、そうではない部分を語り始めた時、何かが変わったともいいました。
とまれ、
「母」は誰にとっても一度は必ず意識して語る必要のある存在なのです。
それが、色々な意味において《偉大な存在》と言われるゆえんなのでしょう。


あなたの「母」はあなたにとってどのような人でしょうか?
母を語るとき、どのような感情が伴うでしょうか?
あるいは、何らの感情も湧き上がってこないでしょうか?
母なくしてこの世に生み出されることはなかった。
これはまぎれもない事実です。
だからこそ「母」は母港であり、故郷であり、世界でただ一人の特別な人。

母について語ってみませんか。
自分にとって母とはどのような人なのか知りたくなったら
精神分析は役にたつでしょう。
興味を持たれた方はこちらを参照ください。
「自己を知る」講座もあります。
シニフィアン研究所http://signifiant-lab.com/

月刊精神分析2013年2月号『グリム童話・白雪姫』でも取り上げられています。
詳しくはこちらを参照ください。http://agency-inc.com/grimm/


2013年02月10日(Sun)▲ページの先頭へ
324)すべてを壊して一からやり直したい
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えていきます。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧いてくることでしょう。

今日は、「すべてを壊して一からやり直したい」について書きたいと思います。

「一からやり直したい」
このように思う時はどのような時でしょうか。
うまくいかない時、思い通りにならない時、
また、期待をかけられ、その重圧に押しつぶされそうに感じた時、
枠が厳しくて窮屈だと感じた時、
そんな時に、一度すべてを壊してしまいたいとの衝動に駆られる。

肩にかかった重荷を下ろしたい、
背中に背負ったものを投げ出したい、
そのように感じた時、
すべてをリセットして、最初から自分の人生をやり直したいと思う。

親や周りからの期待、伝統を受け継いでゆく立場にある時など、
自分一人の問題ではないと感じる環境の中に居る場合、
それらすべて投げ捨てられたなら、どんなに楽なことだろうと考える。
情に絡まれ、情に翻弄され、情に纏わりつかれて断ち切れない。
そんな苦しみと葛藤から抜け出したいと思うとき、
すべてを壊して一からやり直したいと切望するのでしょう。

そのように思った時、
ある人は離婚することで、
ある人は、倒産や失業などの失敗ですべてを失うことで、、
またある人は、問題や事件を起こすことで壊すかもしれません。
もちろん、意識的にはだれも好んではしないでしょう。
無意識的にそのように自らを導いてしまうとの観点から考えた時、
時として、なるほどと思えることもあるのではないでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ある人が言いました。
「どうすれば親が自分のことを諦めるかばかり考えていました」
「親の期待をすべて裏切れば、親から自由になれると思ったんです」
「でもダメでした」
「だから消えたくなったんです」
その人は、自分を知る人が誰もいない世界へと飛び出し、
そこからスタートしたのです。

またある人は
事件を起こし、すべてをなくしました。
その人は復讐をしたと言いました。
その時の気持ちは≪ざまあみろ≫だった。
これでやっと自分の人生が始まると語りました。
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極端な例かもしれません。
ですが、人は自分の想いを遂げるためならどんなことでもするのだと痛感しました。
このような極端な方法を使わず実現する方法はないのでしょうか。
それは、自分の欲望(無意識)に気づくことだと思うのです。
無意識的だからこそ、翻弄されてしまう。
意識化できれば他の方法で実現することができるのではないでしょうか。

すべてを壊して一からやり直したいと思う時、
ひょっとしたら、無意識に翻弄されているのかもしれません。
その自分の無意識を知りたいと思いませんか。
その時、精神分析はお役にたつと思います。

興味を持たれた方は
シニフィアン研究所HPを参照ください。http://signifiant-lab.com/


2012年12月18日(Tue)▲ページの先頭へ
315)摂食障害(過食・拒食)
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、「摂食障害(過食・拒食)」について書きたいと思います。

以前にも、「摂食障害=接触障害」のタイトルで書きましたので参照して頂ければと思います。(http://blog.goo.ne.jp/kuutyann77/e/dd630d880d5c1838b77d311a24fe67a7参照)

≪痩せたい≫≪ダイエット≫
多くの女性にとって、少なくとも一度は覚えのある言葉ではないでしょうか。
最近、過食・拒食・嘔吐などの摂食障害で来談される方が増えてきました。
たいていは、まずご家族が心配し、
早く元通りに食べるようになって欲しいとの必死の思いで、病院や心療内科に連れてゆきます。
ところが、本人は案外ケロリとしている場合が多いようです。
それでも心配な気持ちが収まらないとして、来られる方が多いようです。

ここでは、過食・拒食などの摂食障害を、精神分析的な観点から考えてみたいと思います。
「食」は主に、口を通して取り入れます。
このことを、心の状態と等価なものと考えます。
すると、
過食・拒食は、食に関する過剰な「取り入れ」と「拒否」であり、
過剰に「取り入れる」「拒否する」心の状態ということになります。
つまり、過食・拒食などの摂食障害は、
過剰に何かを取り入れたい欲望と、それを拒否したい欲望の間を揺れ動いている心の状態となります。

では、一体彼女(女性が多いので)は何を欲望しているのでしょうか。
最初の食=母乳(ミルクも含む)の観点から『食=母』との図式が見えてきます。
ここから、彼女の欲望しているのは『母』だと考えます。
次に、どのような母を欲望しているのでしょう。

食べる=一体化(胎内化)とも言えますから
『母との一体化=胎内化を欲望している』とも言えます。

それは不可能なことは解っていますから、
母を食に置き換えて代理満足しようとする心の働きが過食となると考えます。
ところが、どんなに取り入れてもそれは母ではありませんから、
それに気付くやいなや、一気に嘔吐や拒食に転じます。
過食が続いて肥満した妊婦のような姿からは、
彼女を妊娠していた頃の母の姿に同一化しているとも見えなくもありません。

他には、
母と二人っきりになることを求めたり(車で二人だけで出かける、一緒に寝るなど)、
かと思ったら、いきなりあっちへ行けと言ったりもします。
様々な方法で母を振り回し、オロオロさせ、楽しんでいるかのようにも見える場合もあります。

彼女は、母と一体であった時の再現を欲望しているかのようです。
つまり、母との一体化を求めているのですから、
それに近い状況を与えるには≪ギュッと抱きしめること≫ではないでしょうか。
母の肌の温もりと圧力を感じることで、母との一体感を感じ取る。
そこからスタートです。

そのことをお母さんにお話ししますが、実際に娘さんを目の前にすると難しいようです。
なぜなら、そのお母さん自身もそれを求めている場合が多いからです。
ですから、娘さんに具体的に、どのタイミングでどのようにすればよいか解らないと言います。
「難しい」と言います。
そこにお母さん自身の葛藤が見えます。
それを理解するには「精神分析」という対話療法が必要になるでしょう。
娘さんにも、お母さんにも必要な時間をかけ、適切な対応をしていけば、
必ず二人で笑いあえる日がきます。

その実例を紹介していますので参照ください。
「思春期の悩み」http://signifiant-lab.com/eatingdisorder/
ご質問・ご相談は、シニフィアン研究所へどうぞhttp://signifiant-lab.com/


2012年11月13日(Tue)▲ページの先頭へ
306)虐待と無視
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、「虐待と無視」 について書きたいと思います。

虐待されるのが分かっているのに、結局舞い戻ってしまう人がいます。
周囲の人は、『どうして?』と理解に苦しむことでしょう。
それは
その人にとって、自分が間違いなく存在し、生きていることの証となっているからではないでしょうか。

『虐待は嫌だけど、少なくとも虐待されている間は自分が生きている実感がある』
『私は彼に、(虐待する対象として)必要とされている』
このように語った人がいました。

何よりも『無視される』ことを恐れているかのようです。
それほど、無視されることは、人にとって辛いことなのです。
(これについては、以前にも書きましたが)

無視=自分という存在が無くなるに等しい

だから
「無視されるよりは、まだ虐待の方がましだ。だって、私がそこに居るから虐待する。
居なかったら、虐待すらできはしないのだから。」
と思ってしまうのかもしれません。
つまり、
虐待されることが、少なくとも自分が存在し、生きていることの証となっているからです。
このように考えてみると、
虐待されるのが分かっていながらも、結局戻ってしまう理由が少し理解できるような気がします。

どうしてこれほどまでに、人は自分の存在が無くなることを恐れるのでしょうか?
どうしてこれほどまでに、自分の存在を証したいと思うのでしょうか?
これについては、後日考えてみたいと思います。

ご意見、ご質問はシニフィアン研究所までご連絡ください。
http://signifiant-lab.com/
トラウマのサイトもあります。http://signifiant-lab.com/trauma/


2012年09月24日(Mon)▲ページの先頭へ
281)女性はどうして強くなるのか
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、「女性はどうして強くなるのか」 について書きたいと思います。

「女性は年齢と共に強くなる」
「結婚して母になると一段と強くなる」と言われたり、
時には
「おばちゃんは凄い」
「おばちゃんは怖い」
「もう女捨ててる」
などと揶揄されたりもします。

確かに、そのように思われるものを秘めているのかもしれません。
土壇場になると、開き直って、肝が据り、
時には男性顔負けの度胸があったりもします。
どうしてなのでしょう。
どこからそのような強さが出てくるのでしょう。

それは≪ペニスが付いて(持って)ないから≫との観点から考えてみたいと思います。
特に幼少期には、視覚的に一番解りやすい性差(肉体的特徴)でしょう。
このことが女性を強くするのではないかと考えたいのです。

「ペニスが付いている、付いていない」
という事実が性差に大きく関わっていると言われています。
(このことの説明は別の機会にしましょう)
男性には付いて(持って)いる=切り取られるかもしれない不安(去勢不安)
女性には付いて(持って)いない=切り取られる不安はなく、逆に欲しいと思う(ペニス羨望)
つまり、
男性は常にこの「去勢不安」が付きまとうので、
それに対する怯えや恐れを抱いていると考えられます。

ところが、女性はどうでしょう。
最初から無いので、切り取られる心配はありません。
これが開き直りや度胸や強さの根源となっているのではないでしょうか。

これは「最後の切り札」とでも言えるかもしれません。
ですから、めったに使いません。
(余談ですが、花嫁の角隠しも関係あるかも?)
追い詰められて、どうにもならないと思った時だけに使うのです。
ちょっと乱暴な言い方ですが、、、
『取れるもんならとってみな』
と開き直れるのです。

このように書くと、女性からは顰蹙を買うでしょうか。
男性はいかがでしょう。

すべての女性とはいいませんが、
女性は元々付いて(持って)いないがゆえに、切り取られる不安は一切なく、
それゆえに、時として強くなれるのではないでしょうか。

ご意見、ご質問は
シニフィアン研究所までhttp://signifiant-lab.com/
男らしさ、女らしさを考える教室もしています。
「オールOK子育て教室」にて質問ください。http://signifiant-lab.com/#10


2012年09月18日(Tue)▲ページの先頭へ
276)男性よもっと女を欲望せよ
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、「男性よもっと女を欲望せよ!」 について書きたいと思います。

女性の立場から、世の男性たちへこのように叫びたいのです。
なぜなら女性は困り果て、今や怒りを露わにしているからです。
『男がしっかりしないから、女の私がやるしかない』
『もう我慢の限界』
『もう男になんか任せておけない、引っ込んでなさい』
このように叫んでいる女性たちの声が聞こえてくる気がします。

本来、女は男性から求められて女性となり、
男性の力強さ、逞しさに敬意を表し、委任するのです。
それが今や、
役立たずだと叫んでいるように感じます。

これはどこからやってくるのでしょう。
女性は内奥に太陽やマグマのように、燃えたぎるものを秘めている。
そして、それは
自らコントロールすることができないくらい激しいものです。
女性のそれに一度でも触れたことがあれば、理解できるでしょう。
女性は女神にも夜叉にもなれるのです。

それらは女性の素晴らしい一面でもあり、
育て、保護し、時には命に代えてでも守るエネルギーともなるものです。
ただ、残念なことに
≪コントロールするためのスイッチ≫が付いていないのです。
ですから、一度何らかのキッカケで暴走すると、
だれにも止められないのです。
まるで電源を失った原子炉のように。

この女性のエネルギーを活用するためには
制御のためのスイッチが必須です。
そのスイッチが男性なのです。

先人は、この女性のエネルギーを知っていたのではないでしょうか。
ですから、家という中に閉じ込め、掟や慣習で制御していた。
そんな風に考えてみると納得できる気がします。
ところが、今はそれらが解除され、
女性が家の外に自由に解き放たれた。
そのことの是非はともかく
果たして制御スイッチが社会にあるのかどうかが危惧されます。

男性が制御スイッチとなるためには何が必要か?
それは理想の女性像をしっかりと持つこと、
そして、それを女性に求め続けること(言語で語ること)です。
まずは、そこからだと思うのです。
『さわらぬ神にたたりなし』
『うるさいから好きにさせておく』
『妻中心の方が家庭がうまくいく』
ではダメです。

男性よもっと理想の女性像を持ち、それを女性に欲望して欲しい。
女性もそんな男性(白馬の王子様)をずーっと待ち続けているのですから。
そのために
男性も女性も共に学び合いましょう。
男とは、女とは何であるかを。

興味を持たれた方は
シニフィアン研究所HPをご覧ください。http://signifiant-lab.com/



2012年09月16日(Sun)▲ページの先頭へ
275)万が一は実現することを目指している
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、「万が一は実現することを目指している」 について書きたいと思います。

ここでは、
『万が一は実現することを目指している』
ということを、保険を例に、精神分析の観点から書いてみたいと思います。
(*保険加入の必要性の有無や、保険の是非について述べているのではありません)

大抵の人は『万が一の時の安心のために』と考えて(勧められて)保険に加入することでしょう。

ある人との雑談の中で、保険に話が及んだ時のことです。
万が一の時のために、ある保険に加入していたそうですが、
そのおかげで保険金が下りて助かったとのこと。
(ここまでは、ありふれた話でしょう)
その次に、その人が言いました。
≪実は私、〇〇(病名)保険に加入しているんだけど、かなり以前から掛けているから絶対元を取らなきゃ損だわ。≫

それを聞いて、びっくりしました。
この人はもうすでに自分の病気を決めていると思ったからです。
そして、その人に聞きました。
「それって、もう将来の自分の病気を今から決めてるってこと?」
「そりゃそうよ、あれだけ掛けてるんだから、病気になるなら保険金がもらえる病気にならないと意味がないじゃない」

もちろん、先のことは誰にも解りません。
健康に関することをテーマにすることは、慎重であるべきことだと思います。
ですが、この人の語らいを聞いている限り、
「その人の気持ちは、その病気に向かっている」
つまり
『万が一は実現することを目指している』と考えられるのではないでしょうか。
このように、
「意識しないところで、意図しない方向へ向かっている可能性があるもかもしれない。」
ということを書きたかったのです。

何気ない一言の中に、自分でも気づかないものが隠れている。
精神分析は、それらを明らかにする一つの方法だと思います。

シニフィアン研究所では、
精神分析を通して、自ら気付くための面談や講座などを用意しています。
興味を持たれた方は
シニフィアン研究所http://signifiant-lab.com/をご覧ください。
私と精神分析http://agency-inc.com/analysis6/も参照ください。


2012年09月12日(Wed)▲ページの先頭へ
273)孫は可愛いのはなぜか―自己の連続性
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、「孫は可愛いのはなぜか―自己の連続性」 について書きたいと思います。

「わが子も可愛いが、孫の可愛さはまた格別だ」
との声をよく耳にするけれど、なぜなのかと考えてみました。
かつて「孫」という歌が一世を風靡したようです。
それは、記憶のない自分の空白の時間を埋めてくれるものだから、ではないでしょうか。

私たちは、自らの記憶をたどってゆくと、
3歳以前の記憶はよほどのことがない限り、途中で途切れてしまう。
ましてや、誕生から1歳2歳などはほぼ思い出せないでしょう。
親や周りの人の語らいやビデオや写真などの記憶媒体に頼るしかない。
それらを見ても、実感として感じられないかもしれません。

そんな時、目の前に「孫」と世話する母親を見る機会が現れるとします。
一歩離れた場所から、それらを観察する機会を持つことになるのです。
その光景が、「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼ばれる人の心にどのように映るでしょうか?
それらを想像してみたいと思います。

自分では生命さえも維持することは不可能に近い、寄る辺なき存在。
そして、その存在をかいがいしく世話する母親=わが娘(嫁)
そんな光景を目の当たりにし、
『自分も、わが母からあのような眼差しで、世話をしてもらったに違いない』
『自分も、あのようにぐずったり、笑ったりしていたに違いない』
『あのように誰かの世話を受けなければ、片時も生きてゆけなかった自分であった』etc
そこに自分自身の姿を重ねてみることでしょう。

孫のように世話してもらったかもしれない、
孫のようには世話してもらえなかったかもしれない。
いずれにしても、そこには
寄る辺なき存在の自分、世話を必須としていた自分が居る。

その時代が間違いなく自分にもあった、だから今の自分が存在していることだけは、間違いがない。
連続していることは疑いようがない事実としてある。
信じたい、間違いがない事実として受け入れたい。
だけど、自分の記憶は途切れてしまっている。
このようなジレンマとも呼べるものが根底にあるのではないでしょうか。
それがバネになって
今自分の目の前に居る血の繋がった「孫」を観ている。
その「孫」こそが、記憶にない自分の歴史を埋め、繋いでくれる。
このような視線が潜んでいるように思うのです。
だからこそ、わが子とは違った可愛さがひしひしと込み上げてくるのではないでしょうか。

誰もが、信じていることでしょう。
「自分は間違いなく連続した時間の中に生きている。」と。
ひょっとしたら、不連続な時を生きているかもしれない不安を感じているのかもしれません。
それを問いかけないように必死になっているのかもしれません。
逆に、「孫」が可愛いと思えるのは
この不安があるからなのかもしれません。
この不安が人を
「生きるとはなにか」
「何のために生きているのか」
との問いに導くのかもしれません。

「孫」は可愛いと言われることから
このようなことを考えてみました。
興味を持たれた方はシニフィアン研究所のHPをご覧ください。http://signifiant-lab.com/
思春期には特にこのような問いかけをするようです。
思春期の悩みも参照ください。http://signifiant-lab.com/eatingdisorder/


2012年08月30日(Thu)▲ページの先頭へ
267)居場所―ただ聴いて欲しい
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、「居場所―ただ聴いて欲しい」 について書きたいと思います。

日々、クライアントと向き合っていますが、
その中で、クライアントからよく聞く言葉があります。
今日は、その一つを紹介します。
それが「ただ聴いて欲しい」です。 

考えてみれば、
あちこちで「評価される」ことが多いのでしょう。
学校、塾はもちろんのこと、習い事、職場でも
常にだれかと比べられ、評価されることが当たり前になっています。
競争社会にどっぷり浸かっているのですから、当然かもしれません。
せめて、家の中でだけは・・・・
と、思うけれど、それも叶わない。
家の中も外も同じ、常に人からの評価が待っている。

そんなとき、
だれかが、黙って聴いてくれる。
評価することもなく
良い悪い、正誤も言わず、ダメとも言わず
ただただ、「そうか、そうか、そうなんだ」と聴いてくれる。
そんな人が居てほしい
そんな場所が欲しい。
このように、だれもが心のどこかで叫んでいるのではないでしょうか。

あるクライアントが言いました。
≪かつてこんなに長い時間、自分が喋りっぱなしだったことはなかった。いつも誰かに邪魔されたり、さえぎられたりして、
最後まで聴いてもらったことはなかった。≫
また、
一年半の間、毎週身の上話を涙と共に語り続けた人もいました。
それらの大半を語り終えた時、
その女性を見てびっくりしました。
『こんなにも色が白くて、綺麗な人だったのか』と。
それまでは、背中を丸めてうつむき、暗い顔をしていました。
それが
まるで別人のようになったのです。
正直、驚きと共に感動しました。
人は、心の中のヘドロを吐き出した時、こんなにも変容し、輝くものであるのだと!

フランスの精神分析医である、ジャック・ラカンは言いました。
【身体は文字が刻まれた辞書のようなものである。】
まさしく、彼女は
暗く、重く、苦しく、筆舌しがたい過去を身体に刻み込んでいたのです。
それが『語る=言葉にする』ことによって、
身体に刻まれた文字(言語)が剥がれ落ちたのでしょう。

だれもが、その人固有の文字を刻んでいると考え、
それを分析家に語ることで、自らが明らかにし、知っていく方法が精神分析です。
そして、必要とあらば、
その言語を、自分の好きなように書き換えることも可能です。

前述の彼女は
「苦行僧」→「修行僧」→「普通人」へと書き換えました。
ただただ、語り続けることで気付き、書き換えたのです。
このように、
誰かに語り続けたい、聴いてもらいたい、
と、大半の人が叫んでいると思うのです。

「あるがままの自分」が裁かれることもなく、批判されることなく、
指導されることなく、他者に受け入れられること。
それが癒しであり、自己を知ることであり、変容へと繋がってゆくことだと思うのです。

話しても仕方がない。
どうせ言っても・・・・・
と、思ってあきらめていませんか。
聴いてくれる人は必ずいます。

シニフィアン研究所のHPも参照ください。http://signifiant-lab.com/
オールOK子育て法http://signifiant-lab.com/raise/
思春期の悩みhttp://signifiant-lab.com/eatingdisorder/
恋愛と結婚ー仕事と生きがいhttp://signifiant-lab.com/woman/


2012年08月04日(Sat)▲ページの先頭へ
256)自傷、自虐行為の向こうにあるもの=罪責感
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
           
今日は、「罪責感」について書きたいと思います。

罪責感とは、精神分析では
監視する自我とみられる自我の間に生まれる緊張感のことを言います。
この緊張感は、親から禁止され、それを取り入れたところから生まれるとされています。
ちょっと難しいかもしれませんが、
「自責の念」とか、「罪意識」とか言われるものと考えていただけばよいと思います。

罪責感がないと法やルールを無視し、社会の中で犯罪を犯し、
罪責感が強すぎると、うつや自傷・自虐行為、自殺へと自分を追い込んでしまう可能性があります。
一方で罪責感は、道徳心や自制心などを培う基にもなると言われます。
適度な罪責感をもっていることは、
社会で生活する上で、必要なアイテムだと言えるでしょう。

例えば、
災害や事件、事故に遭遇した時
「何で自分だけ助かったのか」
「どうして何もできなかったのか」
「自分が身代わりになればよかった」
などと、自分を責めることでしょう。

助けられなかった自分、何もできなかった自分を責める気持ちです。
その自責の念にさいなまれて、たまらなくなる。
周りの人から「あなたのせいじゃないよ、仕方がなかったんだ」と言われても、
自分が自分を許せないのです。
これは、人として当然な反応かもしれません。
ところが、中には
この自責の念から開放されず、一歩も進めない人がいます。
「時(計)が止まってしまった」
と語ります。

また
「幸せになろうとすると、なぜか不幸がやってくる」
「私は、幸せになってはいけないんです」
などと語る人がいます。
この人たちも何らかの「罪責感」を持っている可能性があります。

これらの場合は、
なぜそんなにも自分を許せないのか?
なぜ時が止まったままなのか?
どのような「罪責感」を持っているのか?
それを知る必要があるでしょう。
それを知れば、その罪責感から開放され、
適切に書き換えることが可能です。

それには、精神分析が必要となるでしょう。
必要な時間をかけて、
悲しい(不幸な)自分と向き合うことで
悲しみ(不幸)は悲しい(不幸な)出来事として
その人の心の中で整理されることでしょう。
そうすれば、
ゆっくり前を向いて歩み始められるのです。

シニフィアン研究所では、精神分析という対話療法を中心に
自分と向き合うお手伝いをしています。
各種相談会、勉強会、養成講座も開催しています。
こちらをどうぞhttp://signifiant-lab.com/
7日(火)から9日(木)までは和歌山、大阪を中心に関西へ出張します。
詳しくはスケジュールをご覧下さい。http://signifiant-lab.com/#161



2012年06月30日(Sat)▲ページの先頭へ
233)飽きっぽい、長続きしないのはなぜ?
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。

今日は「飽きっぽい・長続きしない」について書きたいと思います。

6月29日付のヤフーニュースで見つけた記事です。
タイトルは「なぜ、日本の研究者は人型ロボットを作るのか」
その中で、早稲田大学の高西淳夫教授が答えていた。
「人型ロボット研究の最大の問題、あるいは宿命というのは、『人という明確な目標がある』ということです。(中略)ロボットに人のまねをさせようとすればするほど、永遠にゴールに行きつけないと痛感します。そのために、やめられなくなってしまいます。」
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120629-00000302-nipponcom-pol (より引用)

「永遠にゴールに行きつけない」「そのために、やめられなくなってしまいます」
これらの言葉を中心に、考えてみたいと思います。
少し変形して、
「永遠に手に入らないから、やめられない(興味を持ち続ける)」としてみましょう。
とすると、逆にいうと
「すぐに手に入れば、やめてしまう(興味を持たなくなる)」となります。
つまり
人は、簡単に手に入るものは、すぐにやめてしまいますが、
永遠に手に入らないものは、やめられない(興味を持ち続ける)
と言えることになります。

少し古い表現になりますが、
「高嶺の花」という言葉があります。
ご存知でしょうか?
≪遠くから見るだけで、手に入れることのできないもの、あこがれるだけで、自分にはほど遠いもののたとえ≫ 
のことです。
今風に言うと「追っかけ」が近いでしょうか。
「大好き」と言いますが、
「永遠に手に入らない理想の姿」と思っているのではないでしょうか?

ここから
すぐにやめてしまう人、飽きっぽい人は
「永遠に手に入らないものを持っていない」ということになるのではないでしょうか?
長続きしないのは、性格ではなくて
「やめられない」と思えるものがないからではないでしょうか?
言葉を変えると
「興味をもつものがない」→「手に入らないものがない」→「手に入れたいものがない」

では、なぜ手に入れたいものがないのでしょうか?
次回は、このことについて考えてみたいと思います。

シニフィアン研究所では、このような方の相談もしています。
こちらを参照ください。http://signifiant-lab.com/


2012年06月19日(Tue)▲ページの先頭へ
224)交通事故多発者
シニフィアン研究所(埼玉県上尾市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析で心身の悩み相談をしています。

今日は「交通事故多発者」について書きたいと思います。
交通事故は誰しも起こしたくて起こしているわけじゃないですよね。
でも、毎日あちこちで起きています。
日頃の注意や努力、啓発にも関わらず、悲惨な事故は後を絶ちません。
今日は、特に
交通事故を頻繁に起こしてしまう人たちの特性を
「精神分析的」な観点から書こうと思います。

まず、
「事故」=「自己」という図式を考えてみてください。
「生活するように運転する」というティルマンの言葉があります。
ティルマンは、その人の生き方の一つの表現に過ぎないと言っています。
では、どのような生き方、特性があるのでしょう?

1)共通しているのは、常に心的緊張が高いということ
例えば、
夫婦喧嘩や虐待などが日常的にある家庭環境の中に居ると、どうでしょうか?
常に緊張していなければなりません。
逆に、あまりにも厳格すぎる場合も同じです。
(「家庭」は緊張を緩和し、くつろぎと安らぎの場所のはずです。)
学校や職場が緊張の連続であった場合も然りでしょう。

2)極度に緊張に耐えられず、即座に緊張緩和をしようとする傾向がある
生きていると、何らかの緊張(不満・怒り・攻撃心など)があるのは否めないことです。
その緊張を、うまくコントロールできていれば、軽減、解消ができます。
ところが、その水路付けがうまくできない人の場合、
すぐに緊張を吐き出そうとする傾向があるようです。
(緊張の解消方法を知らないとも言えます)

3)極度に自己中心的で、他人の権利に無関心
感情爆発傾向が強く、愛情や支持の喪失を恐れる傾向が強いようです。

ひと言でいうと
≪常に緊張の中に居て、緊張をコントロールできずに一気に解消しようとする傾向がある≫
ということになるでしょうか。
また、
注意散漫、感情不安定、責任・権利・規制に対する態度、生活の乱などが
その根底にあると考えられています。

他にも、例えば
カン癖、ケンカ好き、ガキ大将だった幼児期があったり、
夜尿症、暗闇恐怖、水泳時の深みへの恐怖、極端な白昼夢のような
心理的不安症状があるとも言われています。

このように、交通事故多発者にはある共通の特性があるようです。
逆に、交通事故によく巻き込まれる人も同じような傾向があるかもしれません。
「事故」=「自己」と考えた場合
交通事故だけではなく、事故は自己を表現していると言えるのではないでしょうか?

(交通)事故を起こさない、合わないために
精神分析という方法で事故(自己)を紐解いてみませんか?

興味をもたれた方はシニフィアン研究所までどうぞ
http://signifiant-lab.com/


2012年06月16日(Sat)▲ページの先頭へ
222)父の日
研究所(埼玉県上尾市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析で心身の悩み相談をしています。

明日は「父の日」です。
そこで、「父」とはどのような存在か?
父の役割とは何か?
父とは言葉(言語)としての存在だということを書きたいと思います。

「父の日」を検索してみました。

1910年にアメリカ・ワシントン州の『J.B.ドット夫人』が教会の牧師にお願いして、亡き父の誕生月6月に父の日礼拝をしてもらったことが切っ掛け。 当時すでに母の日が始まっていたため、彼女は父の日もあるべきだと考え「母の日のように父に感謝する日を」と牧師協会へ嘆願して始まったといわれています。
この「父に感謝する日」はアメリカ中に広がり、1916年に全国的に認知されるようになりました。1926年には「ナショナル ファーザーズ・デイ コミッテ ィ」がニューヨークで結成され、1972年にアメリカの国民の休日となりました。
日本では1950年頃から広まり始め、一般的な行事となったのは1980年代です。
(引用「きのとや」http://www.kinotoya.com/beans/beans_01.html)

初めて知りました。
なるほど、、、

父の存在を強く意識する機会は、母と比べて少ない人が多いのではないでしょうか?
それだけ、身近に感じる機会が少ないのでしょう。
自営業など、比較的共有する時間が多い場合は別として、
やはり身の回りの世話をしてくれる「母」の方が
圧倒的に接触する時間が多いのも、その一因でしょう。
ということは
父を知る機会は非常に少ないというのが、一般的でしょう。

ある人が言いました。
「父親の印象と云えば、休みの日にゴロゴロして、テレビを見て居眠りしてる姿しかない」
ある人は
「休みの日は、いつも一緒に遊んでくれたり、どこかへ連れて行ってくれた」
これらは、現実の父を通してのイメージです。
これも父を知る上で、大切なことでしょう。
では、
仕事の関係で、父とのかかわりの時間が少ない人は
「いつも居なかった」以外、
父親のイメージはないのでしょうか?
多分、そんなことはないでしょう。
ここが大切だと言いたいところなのです。
それは
「母が語る父」です。
子どもの年齢が低ければ低いほど、その影響は顕著なようです。
現実の父がどうであるか、よりも
大好きな母がどのように語ったか?
それが、子どもの心に「父のイメージ」を創り上げるようです。

いかがでしょうか?
お父さんのイメージを浮かべてみてください。
そのイメージは何が基になっていますか?

父の存在、父のイメージは
母や身近な人が父について語った言葉ではありませんか?
時には父自身が語った言葉ではないでしょうか?
父は母とは違うようです。
母は現実に何をしてくれたか?が印象深く
父は何を語ったか?どのように語られたか?が印象深いと言えないでしょうか?
ここから
父とは「語る父」ということがクローズアップされます。

現実に何をしたかよりも、何を語ったか?
父は子どもにとって、最初に出会う社会(=法・秩序)の代表だといわれます。
ここからは次回に書いていくことにしましょう。
興味をもたれた方は
シニフィアン研究所のサブサイト「オールOK子育て法」を参照ください。
参考ブログもどうぞ
父の機能とは?http://blog.goo.ne.jp/kuutyann77/d/20110906
父の威厳―「父」のポストが父を作るhttp://blog.goo.ne.jp/kuutyann77/m/201110


2012年05月16日(Wed)▲ページの先頭へ
119)忙しくしているだけ
何かすることがあるor何かをしている=一所懸命にしている=時間を有効に使っている
何もすることがないor何もしていない=暇=時間を無駄にしている

何かすることがあって、一所懸命していて、忙しくしていると
一所懸命生きているような気がする
仕事をして、誰かのために何かをして、喜んだり喜ばれたりする
一日、一年、一生という時間を
何かをすることで埋めていると
自分なりに一所懸命生きてきた実感を持てる
そんな気がする

もし
それは「ただ忙しくしているでは?」
「時間を埋めているだけでは?」
と問いかけたらどうだろう?
それまでの時間が、人生が空洞化するかもしれない
「今までの私の人生は一体なんだったのだろう?」

何かをしていること=時間を有効に使っている=充実している=一緒懸命に生きている
これだけ忙しくしているのだから
こんなにも誰かのためにしているのだから
自分も楽しく、うれしく感じているのだから
だから有意義な、人生を生きている

そんな風に思い込んでいませんか?

「ただ忙しくしていただけ」
そう思ったら
すべてがリセットできた
すべてを捨てられた
すべてを手放せた
すべてから距離を持てた
すべてから空間が観えた

そう語った人がいた

『「忙しい」と言う字は「心を亡くす」と書く』
昔、誰かが言った声が聴こえた

毎日が忙しいですか?
毎日が暇ですか?
それはあなたがしたいことですか?

シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/


121)「分かって欲しい」と「伝えたい」
誰かに、自分の想いや考えを分かって欲しい
誰かに、自分の想いや考えを伝えたい
ある人に、理解して欲しいと願う
これらは、誰しも経験があることだろう

では
「自分の想いを分かって欲しい」

「自分の想いを伝えたい」
とは同じだろうか?違うだろうか?

もし、違うとしたら
どこがどのように違うのだろうか?

「分かって欲しい」
これは、相手に分かってもらうことを意図している
つまり
相手の良い反応を期待している度合いが高い
とすると
相手の反応の如何によって
自分の反応が左右される可能性が高い

「伝えたい」の場合は
伝える事がその目的であって
その結果、
相手がどのような反応するかは二の次となるだろう

つまり
「分かって欲しい」は相手に理解を求める気持ちを含み
「伝えたい」は相手に理解を求める気持ちを含まない
と言える

「分かって欲しい」
この意識が強い場合、
相手の反応に一喜一憂する、あるいは怒りを覚えるかもしれない
相手が主導権を握っているとも言える
「伝えたい」
この意識でいる場合、
相手の反応に自分の感情が左右される可能性は低いと言える
主導権は自分の側にあるとも言える

どちらの想いで相手に話しかけているだろうか?
これらの言葉を使い分けているだろうか?

ご意見・ご質問は
シニフィアン研究所の迎意 愛(むかいあい)までどうぞ

http://signifiant-lab.com/


2012年05月15日(Tue)▲ページの先頭へ
123)女の数だけ女がいる
遠い昔から
「男は浮気なもの」
と聞いてきた記憶がある

「そんなこと、男の勝手な言い分」

そのように思ってきた
ところが
ある時から、どちらも納得できるようになってきた

男は単純だとも言われる
男は「1」=「付いている」=「持っている」
女は「1以外のすべて」=「付いてない」=「持っていない」
一人の男を知れば「1」だと分かる
しかし
女は1以外の全てだから無数にいろ
だから知りたくなる
そして、永遠に知り尽くすことは無い

その女を知りたいと思うのは、男だけではない
女も自分以外の女はワカラナイ
だから女にとっても「女」は謎であり
興味の対象となる

女の数だけ女がいる
だとした
男が浮気だと言われるのも納得がゆくではないか
しかし
一人の女からすれば
男の浮気なのは許せない
男の勝手な言い分だと言いたくなるのも頷ける

とかく
女にとっても女は謎である
男がよく言うではないか
「女は解らん」と
その通り
女は永遠に謎を秘めているのです

男と女について語りませんか?
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http://signifiant-lab.com/woman/


127)安全と安心
安全と安心
すべての人が求めているものと言ってよい

この世に誕生したときから
人は一人では命を存続させる事もままならない存在
そして
大人になっても
形を変えて、誰かを必要としている
広義での「世話してくれる対象」を

それが時には「愛」と呼ばれる
その愛に応えてくれる相手を求めて彷徨っている
そんな弱い存在でもある

その基本は幼少期にある
特に「乳幼児期」
その時期に
安心と安全を与えられなかったなら
体験できなかったなら
「PTSD」の基を作ると言っても過言ではない

日々のクライアントの叫びを聴いていて痛感する
すべての人の根底には
「PTSD」の芽が宿っている

だからこそ
人は「愛」と言う名の対象を求める
癒されたいと願う
癒されたいと願うのは
傷ついている証拠でもある

それこそ
PTSDの萌芽とも言える気がする

安心と安全
あなたはどんな時に
どんな相手と居る時に
それらを感じますか?

愛について考えている方
癒されたいと思っている方
何に傷つき
何を求めているのか
語ってみませんか?

質問・お問い合わせは
シニフィアン研究所の ≪むかい あい≫までどうぞ
http://signifiant-lab.com
トラウマのサイトはこちらです
http://signifiant-lab.com/trauma/


2012年05月12日(Sat)▲ページの先頭へ
137)『死』が刻印するもの
誰もがいつかは必ず行き着く『死』

それぞれに原因・理由があることだろう
それらの原因や理由はさておき
『死』が他者に与えるものは何か?
と問いかけてみよう

一つの例として
永遠に消えることのない刻印を残す
特に突然に、あるいは若くして死す場合には
その『死』そのものの刻印としてだけでなく
永遠に止まった時の姿のままで保存される
永遠に年をとらず
残された他者の心の中に刻印される

他者がどんなに厚い抱擁をしてくれたとしても
どんなに愛していると囁いてくれたとしても
それが永遠である保障はどこにもない
しかし
『死』は永遠に消えない刻印を
ある特定の人の心の中に刻み込む
そして
その人の心の世界では永遠に年をとらずに生き続ける

深い悲しみと
永遠に生身に触れることのできない事実
時空を超えて
まるで刺青のように消えない
痛みが消えたとしても
イメージとして焼きついている

そして
いつか
そのイメージに新たな「名前」をつけよう
自分固有の名前を!
そして、歩み始めよう
その名前が
共に刻む新たな歴史の時となり
動き始めることだろう


シニフィアン研究所<むかい あい>
http://signifiant-lab.com/


2012年05月11日(Fri)▲ページの先頭へ
141)「認めること」と「責めること」とは違う
あなたが原因で不都合が起こったとき
あなたはどうするだろうか?

「それは私が悪いんだ」
「私は何て事をしたんだろう、私の責任だ」
「ごめんなさい、私が悪いんです」etc
たいていは謝るだろう

素直に「自分が原因であることを認めること」と
「自分で自分を責めること」とは違う

自分で自分を責めるのは
どこかに自己防衛が潜んではいないだろうか?
悪いのは自分だ
と、自分で自分を責めるのは
相手から責められて、傷つくのを避けるためではないだろか?

相手から指摘される前に
自ら「私が悪いんです」と自分を責める事で
相手が「いや そんなことないよ、あなたが悪いんじゃないよ」
と、言ってもらうためではないのだろうか?

相手から責められて傷つくくらいなら
先に、自分が自分を傷つける方が傷は浅い
そんな自己防衛の気持ちが潜んでいる場合がある

何か失敗や、問題が起こったら
まず先に謝る、自分が悪いと言う場合には
この自己防衛の気持ちが働いている可能性が高い

意識的にする場合と、無意識的にしてしまう場合がある

そちらにしても
現実を直視し、吟味することが必要
その結果、原因が自分にあるならば
素直にその非を認めよう
そうすれば
速やかに問題解決するだろうし
同じ失敗は繰り返す可能性は低くなるだろう

あなたは直ぐに謝っていませんか?
自分の責任だと自責の念に捕らわれていませんか?

シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/


142)落書きや書き込みをする
本に線や書き込み、落書きをやたらする人がいる
逆に、絶対書き込みをしない人がいる

間逆の扱い方
単に扱い方の違いではない
本を大切にしているとか、
乱暴に扱うとかとは違う何かがある
いずれも
こだわりがある人である

どうしてだろうか?

本に落書きや書き込みをする
=本を傷つけること
=紙に触れることでもある

これはどういうことを意味するのか?

傷つける行為=傷つけたい欲望の表現or傷つけられたことの再現
触れる行為=体に触れること(特に異性)
このように考えてみたらどうだろうか?

乱暴に書き込みをする人は
乱暴に扱われてきた人かもしれない
書き込みにこだわる人は
触れることを禁止された人かもしれない
あるいは
その逆かもしれない

こだわりを持つのは
何らかの葛藤が無意識にあるのでは?
そんなことを考えてみた

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145)「ふるさと」そこにお母さんがいるから
あなたにとって「ふるさと」ってどこですか?

生まれ育った場所?
長く住んだ場所?
強い絆を結んだ場所?
大切な人との思い出がある場所?
忘れられない人が居た場所?
「第二のふるさと」と呼べる場所?

ある人が言った
「お母さんが居る場所」と!
なるほど!!
ストンと何かが心に落ちた気がした

生まれ育った場所ではなくても
ある特定の場所でなくても
コロコロ変わったとしても
その人にとっては
【お母さんが居る(居た)場所が、私のふるさと】

『おふくろ』
と言うのは、「母の子宮」を意味する
これは、よく聞くことだろう
「子宮」は、すべての人にとって最初の居場所であり、住まいである
そこが間違いなく
すべての人のふるさと

だから
母の居る場所=子宮のある場所=そもそもの「ふるさと」
母がどこに居ても、どこへ動いても
【母の居る場所が、私のふるさと】なのだ

そう、そこにお母さんが居るから!!

あなたの「ふるさと」はどこですか?
そこには、誰が居ますか?
シニフィアン研究所 http://signifiant-lab.com/


146)借りたものを返し忘れる
誰かから借りたものを返さない人はいませんか?
「返そう、返さないと」と思いながら、忘れてしまう人いませんか?
悪気は無いけど、ついつい忘れてしまう
そんな人いませんか?

それは返したくないのかもしれません
だって、もう二度と手放すのは嫌だから
それは、元々自分のものだから

そんなバカな話はない!と思うかもしれませんね
確かに、そうですよね
借りたものは返すのが当たり前ですからね
それは社会的なルールであり、ルールは守らないといけません

しかし、ルールの話をしているのではありません
その人の心の中の話です
もちろん、
その人自身も気付いていないかもしれない心です

【借りたもの=自分自身=母】
こんな図式を考えてみた

借りたものは、一時的にせよ自分の手元にあるもの
返すまでは、それは自分のものと感じる
できることなら、ずーっと自分のものにしたい
それが「期間延長」
そして、いつまでも借りたままにしておく

もう一つは
自分の手の中にあるもの=母の腕の中に抱かれる自分
そんな幻想を持つ
これを【同一視】という
自分=母であり、手の中のもの=抱かれる自分
返すこと=手放すこと=母の腕から手放される自分=見放される=寂しい、悲しい
だから手放したくない
だから返すのを忘れてしまう

人の心には
このような働きが、あちこちに渦巻いている

このような心の働きに興味を持たれた方は
こちらを参照ください
シニフィアン研究所 http://signifiant-lab.com/


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「精神分析」は、薬物や催眠、暗示など一切使わず、相談者(クライアント)と分析家(インテグレーター)との1対1の対話や夢分析により、自分の無意識に気付き、コンプレックスを解消する信頼に基づいた方法です。
クライアントの自我は、様々な理由によって未成熟であったり、歪んでいたり、傷ついていたり、欠損していたり、不完全な状態で浮遊しています。それに確かな形と安定を与えることが精神分析(セラピー)です。その過程で、ありのままの自分でいい、自分は生きる価値があると自信を持ち、自己愛や自己決定力が高まっていくのです。
このように精神分析は、自己を知ることの喜びと成長をもたらします。インテグレーターはクライアントの援助者であり、伴走者です。また、クライアントの意志を大切にしますので、強制したり無理強いすることはありません。
自分の人生は、自分が書き換えてゆくんだ、との勇気と根気を持って歩むならば、必ず自己探求の喜びと幸せを自覚し、自らの意志で未来を切り開いていくことでしょう。




カレンダ
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